せめて振り向いて
一番近くで見ていてとまでは求めないけれど、
あなたの名前を呼んだ時に、せめて振り向いてほしい。
一途でいることは、「一途で居させてもらえる」ということなのかもしれない。
愛することは、「愛させてもらえる」ということなのかもしれない。
最近、興味深いブログを見つけて毎日読んでいる。
素敵なご主人様にお仕えする、素敵な奴隷さんのブログだ。
すごくいい関係でいられて羨ましいな、と素直に嫉妬する。
3年間もの関係、「1番の奴隷」という褒め言葉、こまめなメールでのやりとり。
よい奴隷になれないという不満さえもどこか幸せそうで、昔の奴隷にヤキモチを焼く姿が筆者から見ても愛らしい。
ご主人様がこの方を可愛がるのも分かる気がした。
あの人とはそうなれると思っていた。あの人しか見れなかった。話を聞いてほしい、話を聞きたい。身体のこと以外でも、あの人は心の支えだった。
話す機会はめっきり減ったが、出会ってから一年が経とうとしている。1年の記念日は、先月のことだ。
「監獄みたいだね」と笑われた。自分が今いる環境をとにかく恨む日々である。
しかし今の自分の環境がどうなろうと、あの人が愛してはいけない人であることに変わりはない。いつまでも飼って貰える訳でもないだろう。
1日に1/365だけ歳をとる。自分を愛してくれる人はいない。
あの人の名前を呼ぶ。
身体が疼く報告で。他愛のない話で。
平日に休みができた時の報告で。
朝の挨拶で。寝る前の挨拶で。
Skypeのオンラインマークを見て見ぬふりしながら、あの人の既読を待つ時間がとても苦しい。
2019年初セックスは、誰とするのかな。